明治維新以降、様々な西洋文明とともに「ドライクリーニング」技術が日本に伝わりました。そこからクリーニングは職人の仕事として広がっていきました。クリーニング業を目指す人は、まずはどこかの業者へ丁稚奉公し、労働力を提供する対価として技術を習得し、やがて独立していきました。この時代の技術は、仕上げに関してはすべてアイロン一丁で行う名人芸的なものでした。昭和32年には組合が結成され、すぐに全国の組合が全ク連のもとに集まり、各業者はまとまっていました。
昭和40年頃、大量生産の可能な洗濯機や仕上げ機が次々と開発されると、大きな工場を作って廻りに取次店をたくさん建てる業界「大手」が登場してきました。大手業者は各地に登場し、既存業者から顧客を次々と奪っていきました。
このとき、既存業者はすさまじい反発をします。市場で新規業者と競う「正当な」競争ではなく、大手業者の店舗の前に臨時店舗を作って嫌がらせをしたり、大手業者の自宅に大勢で押しかけ、今すぐ値段を上げろと詰め寄ったりしました。当時の人々の話によると、相手の業者に赤インクを忍ばせた衣料品を入れたり、集配車のフロントガラスを石で割ったりという行為も行われていたようです。勿論、組合への加盟も断られたり、努力してだんだん会社規模を拡大する業者も、組合から辞めされられたりしました。
既存業者の妨害行為はこれにとどまりませんでした。行政を動かし、取次店全部に「クリーニング師」の資格がないと営業できないという法規制を仕掛けてきました。当時のクリーニング師試験は、クリーニング業に3年従事していないと受験資格がありませんでしたから、これは大手業者にとって致命傷になります。
これを危機と感じた大手業者は、団結して法律改正に反対しました。法案は否決され、大手業者達は安心しましたが、これを機に、全ク連と対立する大手業者の団体が設立されました。以降、日本のクリーニング業界は全ク連を頂点とする個人業者達と、大手業者達によるグループとに二分されました。
やがて、価格を安く、納期も早い大手業者が事実上市場を席巻していきました。現在、街の中で見かける派手なクリーニング店や、スーパーマーケットのテナントに入店しているクリーニング店は、ほとんどが大手業者のものです。
しかし、今度は大手業者どうしが対立する時代を迎えました。大手業者達はだんだん商圏を広げ、他の業者の所まで足を伸ばすようになりました。クリーニング業者は、非常に縄張り意識が強く、バッティングする業者同士は非常に仲が悪いことが多いものです。
この様に、日本のクリーニング業界は、激しい対立の連続であり、いがみ合いの歴史を繰り返してきたといえます。あまりにいがみ合いが多いことが、業界のまとまりをなくし、業界の統一見解というものがなく、不毛な業者間の競争を激化させ、最終的には消費者に迷惑がかかる結果となっているように思われます。
そこで、ここでは現在までのクリーニング業界の歩みや出来事などを記し、今後の業界の問題提起を行いたいと思います。
クリーニング業界は「ブラックボックス」と呼ばれています。真実を知られたくない人がたくさんいるのです。しかし、多くの消費者が利用する商売がそれでは困ります。それを明らかにしていきたいと思います。