ここでは、日本のクリーニング業界がどのような変遷を経て現在に至っているかを説明したいと思います。
1,黎明期
日本にクリーニング技術が伝来
明治時代、文明開化の流れを受け、外国人がやってくる横浜、神戸などの港からドライクリーニングの技術が伝わりました。かつての大型客船には、ドライクリーニングの設備が備わっていました。
徒弟制度により技術が伝わる
クリーニングを志す人は、まず既存の業者で丁稚奉公を行い、数年後に技術を覚えて独立していきました。現在でも丁稚奉公を経験した人は数多く残っています。
2,組合時代
組合が結成される
昭和32年、厚生省(現厚生労働省)が組合の結成を促し、クリーニング環境衛生同業組合(現・生活衛生同業組合)が誕生しました。各都道府県の組合は、中央の全国クリーニング生活衛生同業組合連合会(全ク連)がまとめました。
業者が増える
クリーニングを志す人は、先輩の業者に丁稚奉公して3年くらい修業し、やがて独立していきました。この様にしてクリーニング業者はどんどん増えました。当時はすべてをアイロン一丁で仕上げるというのが主流で、ドライクリーニング洗濯機を買えない業者は他に委託するか、先輩に貸してもらっていました。
3,対立時代
機械が開発
昭和40年頃、一度に大量に洗濯物が洗える洗濯機や、タンブラー乾燥機が登場しました。また、優れた仕上げ機もたくさん開発されました。これによりクリーニングも大量生産が可能になりました。
大手業者の登場
優秀な機械の登場により、大量に衣類をクリーニングする工場を作り、その廻りに取次店をいくつも作る「クリーニング大手」が登場しました。大手クリーニング会社は、みな価格を安くして市場を奪っていきました。
厳しい法規制
大手業者の台頭により、既存業者は大変なダメージを受けました。既存の組合は厳しい法規制を課すことにより、大手の進出を止めようとしました。
4,取次店時代
市場は大手業者が掌握
組合は大手業者の取次店すべてに「クリーニング師」の資格を持たなければ営業できなくなる法律を可決しようとしました。これに反対した大手業者達が反発して別な団体を作り、法律は却下されました。これにより、日本のクリーニング市場はほぼ大手によって掌握されました。
大手の対立
市場が大手だけになると、今度は大手業者同士の競争が始まります。それまではお互いに縄張りを荒らさなかったクリーニング業者達は、県境を越え、進出していきました。もともとクリーニング業者は総じて縄張り意識が強い傾向があり、バッティングする業者同士は交流もなくなるなど、大手業者同士の対立が深まりました。
価格競争
大手業者は、最初の時点で安い価格で勝負しました。それ以来、クリーニング業者は価格勝負以外にほとんど競争する手段を思いつかず、現在でもそれが続いています。資材や燃料が数倍、十数倍になっているのに価格が上がらず、各業者は内容を悪くしています。
5,テナント時代
取次店の衰退
日本の大手クリーニング業者達は、取次店をたくさん開店、展開することで発展しましたが、取次店は酒屋、食品店、電器店など他の職業を持つ自営業者が兼業で行うことが多く、十分な教育をされずに受付することにより、トラブルが増え、徐々に減っていきました。
テナント店の登場
平成五年頃から大型小売店の店舗展開が始まり、日本中でスーパーやショッピングセンターが急増しました。消費の場は街中から郊外のショッピングセンターに移り、そこにクリーニング点もテナント入店することが多くなりました。
テナント争奪戦
この時期になると、大都会は別として、地方ではクリーニング業者はテナントに入れないと営業手段がありません。各業者はテナントに入ろうと必死の争奪戦を繰り広げるようになりました。
6,不正の横行
小売店は、クリーニング業者達に「納期を早く、価格を安く」と要望します。この様な厳しい要求はクリーニング業者の利益を圧迫し、運営が苦しくなります。そこで悪いことをする業者が登場します。
マスコミの糾弾
1999年には「洗ってないクリーニング店」、2002年には「効果のない加工」がマスコミから糾弾されています。ともに問題のある行為であり、クリーニング業界のモラル低下ゆえに起こった問題です。
建築基準法違反
2009年には業界二位、三位の業者が建築基準法違反で糾弾されました。摘発された業者が「業界の85%が違反しているじゃないか」と逆ギレし、国土交通省は全国約3万軒のクリーニング所調査を行い、半分以上のクリーニング所が違反状態であることがわかりました。厚生労働省が認可する団体、全ク連の幹部にも、違反業者が多いこともあり、建築基準法問題は、クリーニング業界が全くの無法地帯であることを社会に露呈しました。